外岡 尚美

  • Professor(教授)アメリカ文学・文化、アメリカ演劇

アメリカ演劇との出会い

 アメリカ演劇の中でも最高傑作と思われるのは、ユージン・オニール (Eugene O’Neill) の『夜への長い旅路』 (Long Day’s Journey into Night)です。この作品と出会ったことで、私は演劇を専門とするようになりました。有名な舞台俳優だった父と、麻薬中毒患者だった母をモデルに、作家自身の家庭の崩壊を描いた自伝的な作品です。修道女かピアニストになることを夢見る少女だった母は、父と結婚するためにどちらの夢も捨てるのですが、表向きは華やかでも公演のために次々と安ホテルを移動する俳優の生活に疲れ果ててしまいます。また出産の際にホテルの医師にモルヒネを処方されたことがもとで麻薬中毒になってしまいます。20世紀初頭の中流家庭の理想的母親像である「家庭の天使」の役割を必死で果たそうとしながら、理想像とはかけ離れた自分を嫌悪するあまり、ますます麻薬に逃げ込んでいく母の姿には、消極的には見えますが、現在の女性と変わらない、抑圧された強い自立への欲求を見ることができます。最終幕、花嫁衣裳を手に麻薬に溺れ、幸せだった過去にだけ生きようとする母の姿は、女性の(できる範囲での)自己主張を劇的に描いた場面だと言えます。

 文学批評の役割はテクストの中で声なき者たちがどのように位置付けられているかを解きほぐすことだ、と述べたのは批評家のガヤトリ・スピヴァックですが、『夜への長い旅路』は私にとってそのような批評の出発点となっている作品です。